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本殿へと進む御旅の列 |
「二つの葵祭」
「葵祭」と聞くと5月15日の上賀茂・下鴨神社(山城一宮)で行われる
京都三大祭の一つ「葵祭」を連想される方がほとんどでしょうね。
女性の斎王代や祭員が葵の葉を飾って古都を練り歩く様は
なんとも雅やかで、毎年多くの見物客を集めています。
この天橋立の地にも「葵祭」があります。
それが元伊勢丹後一宮籠(この)神社の「葵祭」なのです。
双方とも歴史は古く、古墳時代後期の欽明天皇(540
〜571年)
のときから行われているようです。
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「葵祭と藤祭」
もともと、京都の葵祭は凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延したため
行われた「鴨の神」を奉る祭礼が始まりと言われています。
この頃の丹後は丹波国という、現在の丹後、丹波
を併せた大国で、その政治の中心地は
天橋立のあるここ、府中にあったと考えられています。
(現在のように分かれたのは和銅6年 713年です)
当時、真名井神社は吉佐宮(与謝宮)とよばれ、
毎年、旧暦の4月には稲作農耕の神、
豊受大神を奉る「藤祭」を行っていました。
農業は春からが新しいスタートとなりますよね。
だから藤祭は春ごとに生まれ変わる御祭神の
再誕生を祝い、五穀豊穣を祈願する祭りであったようです。
なぜ京都、丹後の神社が同じ名前の祭礼を行うようになったのか
は諸説が分かれる所らしいのですが、やはり欽明天皇の時代
もともとからあった藤祭を葵祭と呼ぶようになりました。
京都葵祭では葵の葉をつけるといいましたが、籠神社葵祭では
宮司、祭員とも豊受大神ゆかりの藤の花を飾ります。
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「丹後府中と葵祭」
丹後の国で奈良時代、国府がおかれたのがここ府中でした。
仏教の影響からさまざまな寺も建ち、聖武天皇
(平城京と大仏で有名)が全国<66ケ国>に建てた国分寺
や成相寺も創建され、籠神社(籠宮)も719年に建てられ、
葵祭の舞台は真名井神社から籠神社へうつります。
以降、1580年頃の桃山時代まで、府中は丹後の中心として
栄えました。 また、室町時代には水墨画の画聖 雪舟も
この地をおとずれ 国宝の天橋立図を残しています。
天橋立図には府中に神社仏閣がひしめき、栄えていた様子
が細かく書かれていて、いわば都市図のようにも見えます。
葵祭にはかつて繁栄を極めた丹後の中心都市の伝統と格式
が根底にあって、現在の住民も心のどこかに
そんな時代を誇りに想う気持ちがあるのでしょうか。
みな真剣に、でも楽しく祭りに参加しています。
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「近代の葵祭」
葵まつりも、時代の流れに応じてその形態も変化しているようですね。
戦前は御旅の時、宮司が神馬に乗っていた事もあったようです。
ただ、昔も今も変わらないのは
府中にとってかけがえの無い祭りであるという事。
祭りが終わるといよいよ田植えの時期となります。
今年も実り多い年でありますように・・・。
ほかにもかつては行われていて、現在は途絶えている神事が
たくさんあるらしいのですが、次回の更新時に譲ります。
また、各地区の奉納神事については祭礼次第のコンテンツで
紹介しますので、そちらをごらん下さい。
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