大谷寺・今熊野
大谷寺・今熊野
大谷寺・今熊野 真言宗の古刹。山号は天蓋山。籠神社の神宮寺として広大な寺域を誇り、かつては多くの子院を擁した。『天橋立図』には、不動明王を祀る堂宇と思われる「不動」の書込みや、地元では“薬師の塔”があったと伝える位置に宝塔が描かれている。

山中の「今熊野」は紀州の熊野権現を勧請した社と考えられ、一色氏はここに今熊野城を築いた。一色氏は室町幕府の四職家の一つとして権勢を奮っていたが、一色義直が応仁の乱で西軍に味方して丹後守護職を解かれて以降、劣勢が続くこととなる。文明6年(1474)足利義政の赦免により丹後守護は嫡男の義春に還付されたが若くして病死。禁裏御料所小浜代官職も若狭武田氏に奪われ、義直は屈辱を胸に丹後に下国。本格的な守護所の整備を始める。天橋立図の風景は、都人であった義直が丹後に作り上げた“小京都”の姿といえるようだ。

義直は和歌・絵画にも通じ、智恩寺の『九世戸縁起』を書いた歌僧正徹の弟子・正広と親交があった。歌集『松下集』には、正広が府中に「招月庵」を営み、義直の館などで歌会を開いた様子が記されている。

明応9年(1500)大内義興の元に逃れていた足利義尹の使者として歌人・伊勢貞仍が訪れた際、義直は出家し「慶誉」と号していた(『下つふさ集』)。『与謝郡誌』には岩滝の浄土宗・西光寺は「慶誉上人」の開基とあり、これが義直のことであるならば、府中小学校敷地に残る小字「西光寺」はその前身寺院=義直の館であった可能性も出てくると指摘されている。

また、「日本三景展」(2005)に出展された『九世戸龍燈図扇面』(奈良国立博物館蔵)には海辺に面した武家館が描かれており、その格式から守護館ではないかという説が浮上している。