成相寺
成相寺
成相寺 慶雲元年(704)真応上人の開基とされる西国二十八番札所。山号は成相山(雪舟の時代は世野山)。朱を施された本堂と五重の塔、数多の堂舎が居並ぶ壮観は、『成相寺参詣曼荼羅』にも詳しく描かれている。

『成相寺古記』によれば、応永7年(1398)「龍が山を出た」と比喩される大規模な山崩れで堂舎が崩壊。『天橋立図』に描かれた成相寺は、円庵(一色家臣・成吉氏の一族)によって29年の歳月をかけ再建されたものである。

丹後守護が一色義有になった頃、守護代の延永春信と石川直経との間で内乱が勃発。その混乱に乗じて永正4年(1507)5月11日に管領細川政元と養子・澄之、若狭守護武田元信の軍勢が丹後に侵攻。武田方は府中城と成相寺に布陣、一色方は今熊野城に義有、阿弥陀ケ峰城には延永春信が籠城した。5月28日、細川澄之と加悦城の石川直経が和睦、陣を払って都へ帰る。帰京の後の6月23日、幕府の実権にぎっていた細川政元を澄之の内衆が暗殺。これを期に武田方は総崩れとなり、武田元信は若狭へ逃げ帰った。

一色方の損失も大きく、なにより籠城の際、建物を敵方に城郭として使われる事を防ぐため自ら火を放つ焦土戦術と合戦の戦火により、雪舟が描いた甍居並ぶ“小京都”府中の姿は灰燼に帰してしまったのである。